日本武尊伝説

日本武尊の足跡を追いかける

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東征の帰路 尾張へ

 
 日本武尊は美濃と尾張の境にある内津峠を越えて尾張国に戻ってきました。
そして、宮簀媛と再会し戦いで疲れた体を休めていました。

 下(した)街道

 江戸時代、中山道(東山道)から離れ、尾張城下に向かう脇街道は木曽街道とも呼ばれた上(うわ)街道と善光寺道とも呼ばれた下(した)街道の2本ありました。上街道は現在の愛知県道102号(旧国道41号)で、参勤交代で尾張藩主が中山道を利用する際の重要な官道であったのに対し、下街道は現在の愛知県道508号(一部国道19号・旧国道19号)で、庶民の道として利用され、伊勢参り、御岳山や善光寺参りをはじめ、峠越えの少ない道として多くの利用者がありました。これらの街道は古代から利用されていた道が整備されたものです。古代の美濃と尾張を結ぶ道は下街道であり、現在の内津と勝川を結ぶ旧道です。この道は内津峠を越えて愛知県春日井市に入り、道沿いに日本武尊関連の地名や史跡を見ることができます。
 ただ、日本武尊の時代に整備された街道はありませんでした。大和から東国を支配するための道として古東山道がありましたが、信濃国から尾張に向かう道は整備されておらず、人が往来する道はあったものの、それは街道というような道ではなかったと思います。尾張に入る際は山越えがあり、そこは獣道にだったかもしれません。
 

 

上街道
伏見(御嵩町)ー土田(可児市)ー善師野(ぜんじの:犬山市)ー前原()ー楽田(がくでん:犬山市)ー小牧(小牧市)ー春日井(名鉄駅名:春日井市)ー味鋺(あじま:名古屋市)ー清水口(名古屋市)ー伝馬町(名古屋市)

 

下街道
大井(恵那市)ー追分(恵那市)ー武並(恵那市)ー釜戸(瑞浪市)ー土岐(土岐市)ー高山(土岐市)ー池田(多治見市)ー内津(春日井市)ー坂下(春日井市)ー勝川(春日井市)ー大曽根(名古屋市)ー伝馬町(名古屋市)

 

 
 
 
中山道 槇ケ根 下街道への分岐点 

 
 
  日本武尊は美濃との境にある内津(うつつ)峠を越え、尾張国に入りました。
 東征の折、他の地域では川を利用して移動することが多かったようですが、美濃から尾張へは陸路での移動でした。それは、土岐川(全長96km、岐阜県側は土岐川、愛知県に入ると庄内川と名を変えます)が急流で、浅い川だったため、船を利用することができなかったためです。そのため、中山道の槇ケ根から下街道に入り、瑞浪市釜戸あたりからほぼ土岐川沿いに後の下街道となる道を南下して尾張の内津峠を越えて熱田方面の鳴海潟に向かいました。

 
 
 
土岐市内         岐阜・愛知県境付近        春日井市内
土岐川・庄内川の流れ

 
 美濃地内の下街道を尾張に向かって進んでいた日本武尊ですが、尾張との境の内津峠を前にして日が暮れてしまったため、峠を越えるのをやめて土岐市の熊野神社辺りで一夜を過ごしました。翌日の朝、日本武尊は美濃を後にし、現在の国道19号にほぼ沿っていたと思われる下街道を南下し内々峠に向かいました。この日はまだ夜が明ける前の早朝の出発だったと思われます。このことは現在の愛知県春日井市にある明知(あけち)という地名の由来からわかります。この地名は日の出前に峠を越えた日本武尊が、現在の明知の地に至ったときに夜が明けたためにつけられた名と伝えられているからです。
 
 

内津(うつつ)峠 GoogleMap

 ここは岐阜県多治見市と愛知県春日井市の境にある標高320mほどの峠です。山中は東海自然歩道が通っており、愛知県犬山市から瀬戸市へのルートが整備されています。また、峠付近には国道19号の内津トンネルが通っており、車の通行量が大変多いところです。
 

 
 
 
内津峠の道標には「右廿原道 左江戸 善光寺道」と書かれています。
廿原(つづはら)は岐阜県多治見市
 

 

建稲種の悲報

  内津峠近くにある内々神社には、東征の副将軍建稲種命(たけいなだねのみこと)の悲報が伝えられています。峠の名や神社名の「内々」はこの悲報が元となっています。日本武尊は早馬で駆けつけてきた久米八腹(くめのやはら)から建稲種命が駿河の海で遭難して亡くなったという報告を聞きました。日本武尊は駿河の海のほうを向いて「ああ現哉(うつつかな)、現哉」と繰り返したと言われています。これが地名の由来です。*久米八腹は日本武尊の東征に同行した料理人の七掬脛(ななつかはぎ)の子です。建稲種命の従者で、ともに行動していたようです。久米八腹は駿河の海より海路で急ぎ三河から尾張にもどり、そこから下街道を北上して東山道に向かおうとしたところ、予想より近い場所の内津で日本武尊軍と再会したと思われます。
 
 
 

内々(うつつ)神社 愛知県春日井市内津町24  GoogleMap

 建稲種命を主祭神とし、日本武尊、宮簀媛が祀られています。悲報を聞いた日本武尊が峠近くに建稲種命の霊を祀ったと言われています。
 昔は「内津山妙見宮」や「内内天神神社」と称していたことが『尾張国神名帳』などに書かれています。『尾張国熱田太神宮縁起』をもとに創建年代を景行天皇41年としています。*熱田神宮の創建は内々神社より10年近く後の事です。この地域の篠木荘33村の総鎮守となっていました。また、江戸時代の事のようですが、尾張、美濃国の農民たちが雨ごいをする際にここに祈願したことが記録されています。『春日井の神社』
 戦国時代に豊臣秀吉は朝鮮出兵に際して境内の杉の大木を伐採して船の帆柱としたようです。戦いが終わった後、秀吉は社殿を建てました。権現造りの立派な社殿は江戸時代末の改築によるものです。その際取り付けられた社殿の彫刻も見事です。また、四季を通じていろいろな顔を見せる庭園は神社背後にある山の自然石が組み込まれており、南北朝時代の名僧、夢窓疎石(むそうそせき)の作と言われています。
 祭神の建稲種命の霊は駿河の海から亀に乗ってきたと伝えられています。この地域の出身である私は、子供のころ父より「池で亀を捕まえたら酒を飲ませてから逃がせ」と言われていました。これは亀が神の使いだからという意味があったようです。

 
 
 
 
 

「延喜式神明帳」(927)にその名の見える古い神社で(式内社という)、創建については日本武尊の東征と深い関係をもち、「妙見宮由緒書」(吉見幸和著・1702)によると、景行天皇四十一年尾張連祖、建稲種命をまつったのにはじまる。建稲種命は熱田神宮にもまつられているが内々神社より8、9年おそい創建となっている。いずれも国造りの始祖の神霊をまつったもので、そのご、各地にたの神社が勧請されしだいに氏子が減少していったという。内々神社は中世までは、この地域一帯の篠木荘33か村の総鎮守で祭には村ごとに毎年湯立神楽が奉納されたらしく、現在も内津村、堀内村、上大富村、下大富村(大留村)・神将村(神領村・)・討手村(・)の銘がある釜がのこっている。また、尾張、美濃両国の農民たちは、雨ごいの際には当社に祈願をかけており、この地域住民の精神生活の中心であった。ちなみにつぎのような雨ごい歌がのこっている。 ここが内津か 妙見さまか 竜が水吐く おもしろや西右に立つ雲 乾にや夕立 やがて降り来る 村雨が。前述の「妙見宮由緒木書」をつづけると、建稲種命は天香語山命の後裔、小豊命の子、宮簀姫のあにで、母は尾張大印岐女真敷き刀婢である。尾張連清稲の選述した「熱田縁起」によれば、日本武尊が東征の帰路、尾張にはいり篠城に到着して内津の坂をくだられる頃、副将軍建稲種命の従者久米八腹が、建稲種命が駿河の海に落ち水死された、と早馬をもって報告した。日本武尊はこれを聞き悲泣して、「うつつかな、うつつかな」といわれその霊をまつられたのが内津神社で、神社の有る町を内津というようになったという。なお、建稲種命の死因については、命が一日船をうかべておられると、羽うつくしく声おもしろい異鳥が海上に飛翔するをみて、これをとらえ日本武尊に献上しようと、おいまわすうちに突風がおこり乗船が転覆し溺死したと書かれている。むかしから武将の崇敬があつく、慶長2年(1597)には、豊臣秀吉が朝鮮出兵のおり、戦勝を祈願して社頭の大杉七本を伐採して帆柱とし、凱戦ご御礼に社殿を造営したという。また、慶長18年(1613)には美濃土岐郡妻木城主妻木伝入ならびに可児兼山城主森右近が、天正年中兵火にかけたところをわびて、妻木の城主は鐘楼をたて、妻木村のなかに妙見宮を勧請し、日々崇敬して神罰をまぬがれたとある。また、社宝として武士、信者から寄進された幾多の刀剣、鏡などがある。中世からは妙見宮といい、妙見尊王を本地とし、建稲種命を垂迹とした、いわゆる妙見信仰を中心として隆盛をきわめた。これと密接な関係にある神宮寺妙見寺は、密蔵院開山慈妙上人によって嘉暦年間(1326~29)に建立されている。ちなみに、「延喜式」に春日部郡内々神社、「尾張国神明帳」には正三位内々天神としるされている。祭神は建稲種命・日本武尊・宮簀姫命である。境内社には福神社(大国主神・事代主神)・三峯社(日本武尊)・天王社(素盞嗚命)・稲荷社(稲荷五柱神)・双殿社(迦具土之神・菅原道真・天照大御神・市寸岐島命・大山祇命・伊弉諾尊)がある。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
 

 
 
 
 
本殿彫刻 庭園
 
 
 
 
旧妙見神社 巌屋神社 (内々神社 奥の院)

 
 
 建稲種命の悲報を聞いて日本武尊は「現哉(うつつかな)」と嘆いたと伝えられていますが、これに関する伝承が3つあります。
 日本武尊のもとには建稲種命の従者の久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけたことになっています。馬が荷役用ではなく乗馬利用されたのはもっと後の時代と言われていますから、その点で「現哉」伝承の信ぴょう性が疑われているようです。ただし、古墳時代前期でも乗馬として利用していたとする説もあります。
 口碑による伝承が江戸時代に記録として残される際に、その時は当たり前に乗って利用していた馬だから、日本武尊の時代でも同じように利用されていたと判断し「早馬」を書き入れて記録に残したかもしれません。

 建稲種命について建稲種命 

 

伝承1 内々神社の由緒から

 日本武尊一行が内津峠近くまで来た時、久米八腹(くめのやはら)という者が早馬で駆けてきました。久米は、東海道を通って戻っていた建稲種命が駿河の海で水死したと知らせたのです。これを聞いた日本武尊は大いに悲しみ「ああ現哉々々(うつつかなうつつかな)」と嘆きました。そして、峠を少し下りたところに祠を建て建稲種命の霊を祀りました。そこは現在の内々神社奥の院があるところと言われています。(内々神社境内の案内板)
 

伝承2 『尾張国熱田太神宮縁起』(『熱田縁起』)から

 日本武尊が尾張に向かって帰る途中篠城(しのぎ)の里(『熱田縁起 現代語訳』では現在の春日井市篠木町としていますが、当時は春日井市中部~小牧市東部の広い地域をさしています)で食事をしていました。そこに、建稲種命の従者の久米八腹が早馬で駆けつけ、建稲種命が海に落ちて亡くなったと知らせました。日本武尊は「現哉(うつつかな)、現哉」と言われました。久米八腹はさらに続けました。建稲種命は駿河の海を船で航行中に鳥を見つけました。それはみさごという鳥でした。その鳥が美しい羽を持ち、美しい声で鳴くので、尊に献上したらお喜びになると思い船の帆をかかげて追いかけて捕らえようとしました。すると、急に風波が強くなって船が沈没してしまい、船に乗っていた建稲種命も水死してしまったのです。日本武尊は食事をすることもできず、悲しみながら急いで宮簀媛の館に向かいました。(『尾張国熱田太神宮縁起』)
 

伝承3 『張州府志』『尾張志』から

 内津神社の社の上方の山に奥院があり、ここが内津神社の始まりの地です。この山の小窟に祠があり建稲種命を祀っています。一の鳥居は社殿から南の方の西尾(さいお)村の境にありましたが焼失してしまいました。(この鳥居跡が西尾の馬蹄石とも言われています。)
 日本武尊が「現哉」と言ったのはここ(内津)ではなく、西尾の乾の方(戌亥)に山があって、山王社(山王権現)を祀っているところです。
 
 
 建稲種命が日本武尊に献上するために追いかけた鳥は覚賀鳥(かくかのとり:ミサゴ)といいます。タカ目に属する鳥で魚をとる鳥です。『日本書紀』には景行天皇53年10月条にも登場し、天皇が海路で淡水門(房総半島西側の館山湾、また一説に浦賀水道をさすとも言われています)を渡るとき、覚賀鳥(ミサゴ)の声が聞こえたので、この鳥を見ようと海に入りました。この時、蛤を得ることができたので料理したと書かれています。 

   
 

 

遭難後の建稲種命

 

羽豆神社・羽豆岬 愛知県知多郡南知多町大字師崎字明神山1 GoogleMap

 祭神は建稲種命です。
 知多半島先端の師崎(もろざき)は建稲種命と妻の玉姫が住んでいたところとされ、羽豆岬の待合浦近くに羽豆神社があります。建稲種命は毎日の様に風光明媚な羽豆岬を散歩していたと伝わっています。建稲種命が日本武尊に従って東征に向かうこととなり(この地では建稲種命は水軍を率いて出陣したとされています)、玉姫は帰りをずっと待ち続けていたことから「待合浦」と呼ばれていたと言われています。
 

 
 
 
 
 
 
 
 

幡豆神社 欠の亀岩 愛知県西尾市西幡豆町江尻3 GoogleMap

 駿河の海で亡くなった建稲種命の遺骸が流れ着いた場所が「亀岩」で、幡頭海岸の4番組とされています。4番組は欠(かけ )と呼ばれたことから、欠の亀岩と呼ばれています。 渥美半島と知多牛島にはさまれた三河湾沿岸の蛭子(ひるこ)岬に鎮座しています。
衣服・遺骸が流れ着いたのは無理がある。
船で運ばれてきたとかんがえてよいかもしれない。
 

 
 
 

 

幡頭(幡豆)神社・蛭子社(愛知県西尾市吉良町宮崎宮前60) GoogleMap

 祭神は建稲種命で誉多別命、大物主命が合祀されています。
 日本武尊の東征に「幡頭」(はたがしら)として従った建稲種命は帰途に伊豆の海で亡くなりました。その後、遺骸が蛭子(えびす)岬(宮崎海岸)に流れ着いたので村人が丘上に祀りました。702年のこと(大宝2年)文武天皇は夢で建稲種命の墓ががあることを告げられました。そこで、勅命により社殿を造営し、矛を納めて御神体としたというのが由緒です。
 後に「幡頭」は「幡豆」と書かれるようになりました。
 また、建稲種命が着ていた衣が流れ着いたところから「衣(きぬ)が浦」という地名がついたところもあります。
 

 
 
 
 
 
蛭子社

 
 

 愛知県春日井市の伝承地

 
 春日井市では日本武尊の存在も含めて様々な議論がされています。春日井市教育委員会文化財課が発行する『郷土誌かすがい』の中でも、春日井市内の日本武尊と関係があるとされる地名伝承は江戸時代に尾張藩によって創作されたものであると書かれています。(『郷土誌かすがい 第76号』)古文書等詳細に検証されていることから、疑う余地がないとも言えます。一地域での検証をもとにして、日本各地の伝承まで疑ってしまうようなことはありませんが、神社の社伝とは異なり、地名伝承はどうしても後世のこじつけ感が否めないように思います。
 春日井市の伝承地は内津峠から名古屋市との境界となる庄内川(岐阜県では土岐川)までの下街道(下地図青線)にほぼ沿っています。しかし、それらは江戸時代に創られた話かもしれませんが、現在、『春日井のむかし話』『春日井の伝説』『愛知縣傳説集』などにある伝承を紹介します。
 

 

  

西尾(さいお) 

 春日井市立西尾小学校の校章は制定年月日は不明ですが、馬蹄の中に校名の西の字を配し、下にペンを組み合わせたものです。
 西尾の地まで来た日本武尊が内津の方を振り返ると馬の尾が西を向いたので「西尾」の地名がついたと言われています。はじめは馬の蹄鉄と日本武尊の剣を形どった校章が制定されましたが、戦後に剣はペンに変わりました。(校章と自然 愛知県教育センター 杉浦正巳編著による)

 
 

 

馬蹄石(ばていせき)  GoogleMap

 しばらく立ち止まって建稲種命を祀った内津の方を振り返って見ていたら岩に馬の蹄のあとがつきました。岩に小さなくぼみがついていますので、それが蹄の跡とされました。(赤い円)
 もともとここには内々神社の一の鳥居があったとも言われており、それを立てていた礎石かもしれません。
 

 
 
 

 

明知  

 ここで夜が明けました。土岐の日暮らしの宮を出発したのは夜明け前だったことになります。内津峠越えは夜明け前ではないとする説もあるようで、明知としたのは神屋から見て夜明けの方向だからという意味としています。しかし、土岐の熊野神社の由緒には「ここで日が暮れた」ことになっています。それが正しければ、内津峠を越えたこの辺りで夜が明けたとも思われます。
 

 

神屋(かぎや)  

 どこかの家で(別説で仮殿を設置とあり)朝食のため休んだことから、仮宿(かりやど)が「かぎや」と変化したと伝えられています。また、日本武尊=神が宿泊したことから「神屋」と書いたとも言われています。さらに、「かぎや」はこの辺りの地形が鍵形の谷であることを意味しており「神宐屋」と3文字で表していたと大正時代に出版された『尾張地名考』に書かれています。
 春日井市立神屋(かみや)小学校の校章は日本武尊が使っていた剣がこの地から発見されたと言う言い伝えによるものです。外側に剣の形をとり,中に「神屋」の二字を配して図案化したものです。

 

 
 

日吉神社 愛知県春日井市明知町66  GoogleMap

 祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)他です。
 江戸時代に創建されたと言われています。
 元は山王社(山王権現)と称していました。『張州府志』や『尾張志』によると、日本武尊が建稲種命の悲報を聞いて「現哉(うつつかな)、現哉」と嘆いたところと言われています。内津峠を越えて坂を下って来た日本武尊がかつて篠城(しのぎ)村だったこの小山に来た時に建稲種命の従者の久米八腹と出会ったのです。日本武尊が越えてきた峠を振り返り、そこに建稲種命を祀る祠を建てました。それが内々神社(旧妙見宮)の奥の院です。

 
 
 

 
 

御手洗(みたらし)宮 愛知県春日井市坂下町  GoogleMap

 『春日井のむかし話』では日本武尊が手を洗ったと書かれているところです。他にも用を足した『愛知県伝説集』、顔を洗った『春日井の伝説』などと言われています。春日井市教育委員会が設置した案内板によると、昔は本当に清水が湧いていたようで、その水が眼病や皮膚病に効くとされ、信仰の対象となっていたため「御手洗宮」として周りの木にしめ縄が張られていたようです。現在は高蔵寺ニュータウンや坂下ネオポリス地区の宅地開発で水源の山がなくなってしまい、清水は出ていません。
 

 
 
 
 

  

柏井(かしわい)  

 日本武尊に関係がある地名としていますが、市民にもほとんど知られていません。井は清水を意味し、日本武尊が昼食をとった時の御膳水としたと伝わっています。柏は神様に宿る青葉の木をさすとも言われているそうです。ただ、この地名は明治時代についた村名のようです。

  
 

篠木合宿 馬の塔(まんと)祭り  GoogleMap

 毎年5/18に飾り馬を連ねて熱田神宮に奉納する行事で、明治の初めまで春日井市内で行われていたそうです。これは建稲種命が亡くなったことを悲しむ日本武尊の心を慰めるために、篠木33村の人たちが日本武尊を熱田まで見送ったことに始まると言われています。市内の円福寺には絵馬が伝わっています。

篠木合宿絵馬 

 
 

その他の神社・史跡

 

五社神社 愛知県春日井市玉野町宮之越1489  GoogleMap

 祭神は建稲種命、日本武尊、宮簀媛、素戔嗚尊、天照皇大神です。
 1429年に創建したと伝えられています。なぜ日本武尊につながる祭神が祀られているのか、宮司さんに尋ねましたがわからないそうです。本殿のある小山にはたくさんの小石が落ちていますが、これらは古墳の周りに敷かれていた葺石ではないでしょうか。しかし、古墳の指定はされていません。

 
 
 
 

五社大明神社 愛知県春日井市高座町1939 GoogleMap

 祭神は大碓命、素戔嗚尊、日本武尊、菊理比売命、天目一命、高皇産霊尊、大己貴命、市杵島姫命です。
 昔、熱田神宮の高倉明神をまつっていたことにより高倉地とよばれていたため、地名も高座(たかくら)となりました。創建に関することは不明ですが、熱田高蔵宮(祭神は仲哀天皇)の奥院だったとも言われています。高蔵宮は成務天皇を祭神としているとする説もあります。ここに日本武尊の双子の兄でもある大碓命が祀られていることが不思議です。大碓命はあまり表舞台に立っていない皇子で、景行天皇の命により美濃に封じられていました。そのため、岐阜県山県市や土岐市、猿投神社にその名を見ることができます。

 
 
 
 
 

 

西山製鉄遺跡 GoogleMap

 日本武尊伝説が鉄の産地と関係があることが言われていますが、春日井市にも古代の鉄の産地だったところがあります。春日井市北部、小牧市に近い畑地から鉄の塊が出土しました。このことから春日井市でも製鉄を行っていたことが分かりました。現在これらの鉄の塊は春日井市の文化センターに展示されています。

 
 
金谷(かなや)薬師  愛知県春日井市西山町4GoogleMap
 この薬師は西山地区にあります。昔は鉄製の薬師が祀られていましたが、いつのまにか移転してしまいました。現在は石仏と灯篭の笠が置かれています。鉄の神は金山彦とか金屋子神と言われますが「金谷」はそれに通じる名前です。
 
 
 
 

 

八幡神社 愛知県春日井市東野町東山5  GoogleMap

 祭神として日本武尊、応神天皇、天照大神が祀られています。
 江戸時代に小牧市大草の八幡宮から勧進されたようです。日本武尊の足跡はありません。

 
 
 
 

 

両社宮 愛知県春日井市宮町字宮町1  GoogleMap

 祭神は日本武尊、大国主命、阿大賀田須命(あたがたすのみこと)、建手和爾命(たてかにのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)ですが、江戸時代の創建になりますからここに日本武尊の足跡はありません。熱田社と八幡社が合祀されています。

 
 
 

 
  

春日井市の昔話 

 中日新聞のくらしのニュースに「わがまちの昔物語」 -日本武尊と内津- が掲載されました。作者の了解を得て画像で紹介します。
 

 
 

 

 鳴海潟へ

 
 尾張に入って日本武尊が向かったのは東征前に再会を誓った宮簀媛の館です。この館は火上山(現在の名古屋市大高にある氷上姉子神社)にあり、鳴海潟から船で渡ることにしました。現在鳴海潟はありません。東征に出発する際の船出の地とも言われていますが、実際の船出の海は現在鳴海神社がある地より南にあった旧社地の天神山近くであろうと思われます。
 
 

 
白鳥神社 愛知県愛知郡東郷町大字諸輪字中市151  GoogleMap

 日本武尊を祭神としています。もと諸輪大明神と呼ばれていた神社で、創建は室町時代とされています。なぜここに日本武尊が祀られているかは不明です。日本武尊の足跡はなさそうです。

 
 
 

 
 
  東征を終え、下街道を通って尾張の鳴海潟に着いた日本武尊は海の向こうに宮簀媛の館がある火上山を見ていました。そこで歌を詠みました。
 

「奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛」

 

  鳴海浦を見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも  
天神社石碑
 
鳴海らを見やれば遠し、直楫にこの夕潮に渡らへむかも
『尾張国熱田太神宮縁起』

 

年魚市潟

 
 Google mapを元にして、今よりも海水面を上昇させて見ることができる地図を作成することができます。( Flood Map
 当時の海水面は現在より上だったと予想しています。そこで、当時鳴海浦と呼ばれている近くに松巨嶋(まつこしま)という小さな島があったことが分かっていますので、地図上にそれが現れるまで海水面を上昇させてみることにしました。すると、+7mで当時の海岸線が浮かび上がり、松巨嶋が見えてきました。(地図赤〇)この地図が当時の伊勢湾を示していると思われます。

 
 

熊野三社・松巨嶋 愛知県名古屋市南区呼続2丁目6  GoogleMap

 現在松巨嶋はありません。しかし、その名が書かれた手水鉢が残されています。

 
 
 
 
 
 
年魚市潟(あゆちがた)
 作成した地図を見ると、鳴海浦から火上の地(現在の名古屋市緑区大高)が見えること、熱田神宮の前には海が広がっていたことがわかってきます。また、松巨嶋と彫られた手水鉢があるところが、その地図上に重なり、鳴海浦と接する愛知県の名のもとになっている年魚市潟(あゆちがた)もはっきりとしてきます。

 

 

 
年魚市潟(あゆちがた)・白毫寺 名古屋市南区岩戸町  GoogleMap

   このあたりはかつて松巨嶋にある高台でした。そこから見下ろせば「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれる干潟が広がっていました。いつの時代までそれが見えたのかはわかりませんが、石碑には「勝景」と書かれています。『日本書紀』には「尾張国年魚市郡熱田」の文字が見られます。『張州府志』が書かれたころは「愛智」と表記されています。「あゆち」は「あいち」と転じて愛知県名となりました。

 
 
 

 
  

鳴海潟に到着

 春日井市を後にした日本武尊は陸路でも火上山に向かうことはできたはずですが、あえて現在の名古屋市内を南下して年魚市潟の方に向かいました。鳴海潟に着いた頃は日が暮れてしまい、渡海をあきらめて翌日船で火上の地へ渡ろうと決めました。この様子を詠んだ石碑が成海神社の旧社地にあります。
 

成海神社 愛知県名古屋市緑区鳴海町乙子山85  GoogleMap

 
 
 
 

「天武天皇の朱鳥元年(689)熱田神宮神劍飛鳥の都より御遷座の時の創祀と伝えられています。是は社伝「成海神社古実聞書」(元禄14年~延享4)神主 牧野播磨守英治筆録のみでなく、奈良朝末期天応元年(781)に書かれた「熱田大神宮御鎮座次第本記」に成海神社は天武の朝、日本武尊御東征の縁に依る祭神と見えることでも肯けます。ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所でその東征のとき尾張国の長官であった、建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、妹の宮簀媛命は尊の妃に成られました寛平2年(890)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、その一に「奈留美らを見やれば遠し火高地にこの夕潮に渡らへむかも」と武尊が古の鳴海潟の岸辺で詠まれたもので成海神社は是を縁起としてその故地に創祀された。その場所は現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で、太古は波打ち際で鳴海潟が干拓と成って室町初期、応永の時代(約596年前)今川義元の家臣で安原備中守が築城に当って、今の乙子山の地にご遷座したもので現在では当社の御旅所として、礼祭日には神輿渡御で巡幸しその折り尊の御東征の縁に依る扇川の畔にて御船流・御井の神事を齋行する。当社は古来、東宮大明神・東宮様と俗称するは蓋し、熱田の東宮の意として別称に依る縁由で旧社格に於いては、延喜式内小社に列せられ尾張国の神名帳に所載せられ、国幣の供進に與かる神社として、登録せられたのである。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
 

天神社(あまつかみしゃ)(成海神社旧社地)鳴海城跡 愛知県名古屋市緑区鳴海町矢切127  GoogleMap

 やや小高い天神山だったところに社があります。ここは成海神社の旧社地で現在は御旅所となっています。成海神社は鳴海城を築城するため、ここから北にある乙子山に社を遷しました。戦国時代末に廃城となり天神社が祀られることとなりました。社地には「鳴海城址之碑」と書かれた石碑があります。また、石段下は倭武尊の石碑もあります。 
 
 石碑には『尾張国熱田太神宮縁起』の原文のまま漢文で
奈留美良乎 美也礼皮止保志 比多加知尓 己乃由不志保尓 和多良牟加毛
 と書かれており、境内の案内板には
鳴海浦を見やれば遠し火高地に この夕潮に渡らへんかも
 と現代語で書かれています。
 
 この歌の現代語訳は熱田神宮宮庁が発行している『尾張国熱田太神宮縁起 現代語訳』では別の書き方がしてあります。
 「鳴海らを見やれば遠し、直楫(ひたかぢ)にこの夕潮に渡らへむかも
 これを
 「鳴海の方を見やると遠い。ここから真直ぐに楫(かじ)を切ってこの夕汐に乗って渡ろうかよ
 と歌の訳を書いています。

 
 
 

 
 

 

『日本書紀』 
日本武尊は尾張に帰ってきました。すぐに尾張氏の娘の宮簀媛(みやすひめ)と結婚し、しばらくここに留まって何か月か経ちました。

 

尾張に滞在

  

尾張 火上山

 
 宮簀媛が幼いころより暮らしていたのは現在名古屋市緑区にある氷上姉子神社が鎮座する地です。火上山(ひかみやま)あるいは火上邑(ひかみむら)とも言われた海に面して小高いところにありました。この鎮座地はもともと「火高」と書かれていました。また、火高火上の里とも称されていました。よって延喜式神名帳や愛知県史にも「火上姉子神社」として記載されています。しかし永徳3年(1382年)に社殿が火災に遭ったため、「火上」を「氷上」に、「火高」を「大高」に改めました。
 尾張に戻った日本武尊は鳴海浦から潮が満ちるのを待って船で火上の地にやってきました。無事に戻って再会できた二人はしばらくここで過ごしました。
 
 宮簀媛の館での二人の出来事が伝えられています。
 ある夜日本武尊と宮簀媛は歌を詠みました。
 
 日本武尊
 「さ寝むと吾は思へど汝が著せる襲の襽に月立ちにけり
  あなたと寝ようとしましたがあなたの衣には月が立っていますね

 (*月が立つは生理のこと)

 
 宮簀媛
 「君待ち難に我が服せる襲(おすひ)の襽に月立たなむよ
  あなたを待っていたら私の衣に月がたってしまいましたよ
 
 『尾張国熱田太神宮縁起』に書かれている歌
 
 日本武尊
 「まそげ 尾張の山と こちこちの山の峡(かい)ゆ とみ渡る ひかはのはほそ
  手弱腕(たわやかいな)を枕(ま)き寝むと われは思へるを 寄り寝むと吾は思へるを 我妹子
  汝か着せるおすひの上に 朝月のごとく 月立ちにけり
 
 宮簀媛
 「安見しし 吾大君 高光る日の皇子 あらたまの 来経ゆく年を
  年久に 皇子待ちかたに 月重ね 君待ちかたに うべなうべなしもや
  吾が着せる おすひの上に 朝月のごとく 月立ちにける
 
 

氷上姉子神社 火上山  名古屋市緑区大高町  GoogleMap

 宮簀媛命を祭神としています。熱田神宮に日本武尊の神剣が祀られる以前はここに祀られていました。
 東征を終えた日本武尊は、鳴海浦から船で氷上山に渡りました。火上山は建稲種命や宮簀媛の父乎止与命(おとよのみこと)の館がある地です。日本武尊はここで東征前に誓った宮簀媛と結婚しました。そして、伊吹山に賊退治に出かけるまでの間でしたがここで平穏に暮らしていました。現在氷上姉子神社がある地に隣接して元宮とされたところがあります。ここが宮簀媛の館があったところと言われています。

 
 
 
 
 
 
 
元宮 宮簀媛の館跡

  

日本武尊妃 宮簀媛

 日本武尊と宮簀媛の最初の出会いは熱田の地です。
 

松后社(まつこしゃ) 愛知県名古屋市熱田区神宮2  GoogleMap

 宮簀媛命を祭神としています。
 熱田神宮の境外摂社で神宮の南鳥居の少し南に離れたところにあります。ここは日本武尊と宮簀媛の出会いの地です。日本武尊が川で衣を洗っていた娘に火上への道を尋ねたところ、娘は耳が聞こえないふりをしました。この娘が建稲種命の妹の宮簀媛です。聞こえないふりをしたことから「おつんぼ神」とも呼ばれ、耳の神様となっています。
 

 
 
 
 
 
断夫山(だんぷさん・だんぷやま)古墳・陀武夫御墓  愛知県名古屋市熱田区旗屋町  GoogleMap
 全長約150mの東海地方では最大の前方後円墳です。この古墳は建稲種命の妹であり日本武尊の妃でもあった宮簀媛の墓と伝えられています。古墳の名前も宮簀媛と関係があります。東征後に尾張に戻った日本武尊は、伊吹山の神と戦って病気になり能褒野で亡くなってしまいます。宮簀媛は昼夜悲しんでいましたが、兄建稲種命もすでにおらず、国をまとめていくのは自分しかいないと思いました。夫を断ち、再婚することなくこの熱田の地にとどまったと言われています。
 しかし、墳丘で発見された円筒埴輪の年代測定によると6世紀前半の築造とみられています。尾張氏と関係がある古墳であろうと思われます。そのため、別説として尾張連草香(おわりむらじくさか)や継体天皇妃となった目子媛(めのこひめ)の墓ともいわれています。目子媛墓については別に愛知県春日井市にある二子山古墳の可能性もあるようです。
 
 
 

 

 
氷上姉子神社摂社  玉根社 名古屋市緑区大高町  GoogleMap
 祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)です。 
 姉子神社の北西にあり、社は宮簀媛の館があった火上山にあり、常世島と呼ばれています。『尾張名所図絵』には「宮簀姫命の荒魂にして即ち墓地なり。故に陵と通称す」と書かれています。
 
 
 
右端写真は熱田神宮の大高斎田
 
 
 

尾張各地に出かけた日本武尊

 尾張の宮簀媛の館にいる間に、愛知県の知多半島の方に出かけていたようです。
 それが尾張に戻ってから火上の館に滞在していた時の事か、あるいは東征前の事かは不明です。
 
 

伊久智神社(いくぢじんじゃ ) 愛知県知多郡東浦町大字生路字森腰79 GoogleMap

 祭神は木花開耶姫尊(木花咲夜姫)、塩土老翁神(塩土翁)です。

 
 
 

 
 

生路井(いくじい) 愛知県知多郡東浦町大字生路 GoogleMap

 伊弉諾尊、伊邪那美尊が祀られています。
 日本武尊が猟に来たとき喉が渇いたので弓のはずで岩を突くと、水が沸きだしました。この水が流れるあたりは「井の口」と呼ばれ「井路」となりました。この井戸は「生路井」といわれるようになったそうです。

 
 
 
 
 

寝覚の里 名古屋市緑区大高町中ノ島19  GoogleMap

 東海市名和町と名古屋市の境に、明治43年に熱田神宮宮司により立てられた「寝覚めの里」の石碑があります。「大高の里わぶなるこの地名は千八百年の昔、倭武天皇の火上の行在所に居られし時、朝な朝なに海潮の波音に、寝覚めし給ひし方なる故にかくいい効はせるものならん云々。」と書かれています。
 現在は埋め立てられていますが、この辺りから宮簀媛の館辺りにかけては波が打ち寄せる海岸が続いていたようで、静かな夜は館の中にいても波の音が大きくて目が覚めてしまうほどだったのかもしれません。
 

 
 
 
 
 

 
 

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