日本武尊伝説

日本武尊の足跡を追いかける

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古事記・日本書紀

『古事記』と『日本書紀』

 
 日本初の歴史書としている『古事記』と『日本書紀』ですが、その違いを簡単に整理してみます。
 
 編纂が始まったのは飛鳥時代の事で、天武天皇の時代です。しかし、完成したのは奈良時代です。天皇の歴史を書いた『帝紀』と豪族の伝承等が書かれた『旧辞』という歴史書がありましたが、これらの信ぴょう性は疑わしく、新しく、天皇が国家支配することの正当性を記しておく必要がありました。そこで作られた歴史書が『古事記』と『日本書紀』でした。二書の完成時期は近く、その内容も同じ部分がありますが、相違点も多くあります。
 中央集権国家作りを行うにはこれら二書を根拠として天皇を神格化する必要性があったと思われます。

『古事記』全3巻

太安万侶の墓

   712年奈良時代の元明天皇の代に完成した歴史書で日本語の音を漢字に当てた漢文をもとにした和文体という形式で書かれています。作成に当たったのは二人で完成年より30年ほど前に『帝紀』『旧辞』の暗誦(誦習:しょうしゅう)を天武天皇から命じられた稗田阿礼(ひえだのあれい:性別不明)が語るのを太安万侶(おおのやすまろ)が聞きながら筆記しました。その内容は天地初発から推古天皇の時代までで、神や天皇の伝記が物語風に書かれています。特に大国主命が登場する出雲神話などは劇的に書かれています。倭建命について、景行天皇の皇子倭建命は兄を殺してしまうほどの乱暴者で、天皇は皇子を遠ざけるために征西・東征を命じたとされています。「国思歌」は能褒野で日本武尊が歌ったとしています。

『古事記』は一般に国内向けに作成されたと言われています。国内向けの『古事記』でしたが、作成されてから長い間表舞台には出てきていませんでした。注目されたのは江戸時代で、荷田春満(かだのあずままろ)と賀茂真淵(かものまぶち)らが研究し、本居宣長が『古事記伝』44巻を著したことで脚光を浴びるようになりました。
 
 

 『日本書紀』全30巻 系図1巻

 『古事記』からわずか8年後の720年元正天皇の代に完成しました。全文が漢文体で書かれています。川島皇子、忍壁皇子ら6人の皇族と中臣大嶋ら6人の官人が命じられてグループに分かれ編纂が始まりました。この中には『古事記』を編纂した太安万侶もいたと言われています。名前は分かっていませんが、作成に当たった人の中には渡来人もいたと考えられています。舎人親王(とねりしんのう)が完成させました。また、藤原鎌足の功績が大きく取り上げられているため、当時の重職に就いていた藤原不比等の影響があったと言われています。
『日本書紀』には天地開闢から持統天皇までに起こった出来事が編年体という年代月日順で書かれています。『古事記』にある出雲神話は書かれていません。日本武尊について、景行天皇は日本武尊が筑紫を平定しさらに東国を平定したことを褒め称えており、日本武尊が能褒野で亡くなると大変悲しみました。また「国思歌」は九州遠征で景行天皇が歌ったとしています。さらに『古事記』との大きな違いとして、他書の引用や異伝(別説)が多く書かれています。一般に国外向けの(中国を意識した)歴史書となっています。
 
 

 倭建命は第12代景行天皇の皇子として誕生しましました。。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい、同母兄に大碓命(おおうすのみこと)がいます。小碓命は武勇に秀でていましましたが気性が激しく、兄を殺害してしまったことから父から疎(うと)んじられるようになりましました。 

 
『古事記』倭建命
 

纏向日代宮

 ある日、景行天皇の宮(日代宮:ひしろのみや-奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召し連れてくるように言われました。。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は、二人があまりに美しい娘たちだったので自分のもとに置くことと決め、父の前には別の娘を差し出してごまかすことにしました。。しかし、このことが父に知られることとなり、大碓命は父の前に顔を出しづらくなってしまうのです。そのため朝夕の食事にも同席せず、大事な儀式に出ないことで父を怒らせてしまいました。

 
 父は弟の小碓命に、食事の席に出るように兄を諭してくるよう命じました。そこで、小碓命は早々に兄と会います。しかし、それでも大碓命が顔を出さないので、父が小碓命にどのように諭したのかをたずねました。すると、小碓命は「朝、兄が厠(かわや:便所)に入ったとき、手足をもぎ取り、体を薦(こも:=「菰」 わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と答えました。
 天皇は小碓命の荒々しい性格が恐ろしくなり小碓命を呼んで「西方に二人の熊襲(くまそ)建がいて天皇の命に従わない無礼な奴らだから征伐してきなさいと命じました。
 

伊勢神宮

 小碓命は叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から御衣(みけし)と御裳(みも)をもらい、懐に短剣を入れて出かけました。

 
 *倭比売命は伊勢神宮で天照大神を祀っていました。小碓命は大和の宮から伊勢神宮までを往復したと考えられますが、その行程は不明です。
 
 九州の熊襲建は大きな家を新築したところで、新築祝いの宴が催されるところでした。家の周りは軍が三重に取り囲んでいて、室を作っていました。そして宴会の食事の準備をしているところでした。そこで、宴会が開かれるのを待つことにしました。
 

加佐登神社

 祝宴が開かれることになった日、小碓命は少女のように髪を結い、叔母の倭比売命からもらった衣を着て宴にいる女たちの中に紛れ込みました。熊襲建兄弟は美しい娘をみつけると間に座らせました。この時、小碓命はここぞどかりに懐に持っていた短刀で兄の胸を一気に刺して殺してしまいました。それを見ていた弟の建は外に走って逃げようとしましたが部屋の梯子(はしご)の下に追い詰めると小碓命は弟の背中の皮をつかみ、刀を尻から刺しました。弟は息絶える前「まだ刀を抜かないでください。あなたはどなたですか。」と尋ねました。小碓命は「我は大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)」の子で名は倭男具那王(やまとおぐなのみこ)だ。おまえたちが命令に従わないと聞いておまえたちを殺せと命じられて来たのだ。」と答えました。熊襲建がまた言いました。「西方には自分たち兄弟より強い者はいないと思っていましたが大倭国にはいたんですね。できるならば、建の名(「建」は勇敢な者という意味を持つ)を献上したい。これからは倭建御子(やまとたけるのみこ)と名乗ってほしい」と言いました。言い終わったところで小碓命は完熟した瓜を切るように刀を振りおろして殺しました。小碓命はこの後倭建命(やまとたけるのみこと)となりました。

 
 大和に戻るとき山の神と河の神、穴戸の神を服従させました。
 

島根 加茂遺跡

 倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶことにしました。

 出雲建を殺すために密かに硬いイチイガシの木で偽物の刀を作りました。そして二人で肥河(ひのかわ)に入り水につかっていました。先に上がった倭建命は出雲建が置いていた刀を取って「今から刀を換えて太刀合わせをしよう。」と言いました。そこで出雲建も河から上がり倭建命の刀を持ちました。いざ勝負しようとして出雲建は刀を抜くことができません。そのすきに倭建命は出雲建を切り殺してしまいました。
 
 この時歌をつくりました。
 

 やつめさす 出雲建が 佩(は)ける刀 黒葛(つづら)さは巻き 
 さ身無しにあはれ 

 
 倭建命は都に戻り報告しました。
 

奈良 伊射奈岐神社

 倭建命は休む間もなく、次は東国の平定へと向かわねばなりませんでした。

 父の景行天皇は、東国の12か国(伊勢:いせ、尾張:おわり、三河:みかわ、遠江:とおとうみ、駿河:するが、甲斐:かい、伊豆:いず、相模:さがみ、武蔵:むさし、総:ふさ、常陸:ひたち、陸奥:みちのく)が従わないので平定するよう倭健命に命じたのです。
 
 天皇は吉備臣の祖先で名は御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を従わせました。そして、比比羅木(ひいらぎ)の八尋矛(やひろほこ)を授けました。 
 

倭姫宮

 出発前、倭建命は伊勢神宮の叔母の倭比売命のもとを訪れました。

 倭建命は倭比売命に父天皇は自分に死ねと思っておられるのかと嘆きました。「西の熊襲を討って都に戻ってきてからまだそんなに日が経っていないのに、今度は軍もなく東国の十二道の悪しき者たちを征伐せよと命じられました。これは思うに私に死ねと言っているのです。」
 
 この時、倭比売は倭建命に伊勢神宮にあった神剣(天叢雲剣:あめのむらくものつるぎ)と袋とを授け「危急の時にはこれを開けなさい」と言いました。
 
 尾張に入ると国造の娘の美夜受比売(みやずひめ)と出会い、東国の平定後に結婚すると約束して出かけました。そして、東方の山河の荒ぶる神とまつろわぬ神たちをすべて征伐しました。
 
 倭建命は相模の国に入りました。
 

焼津神社

 相模の国の国造が倭建命を迎え「野の真ん中に沼があって、荒ぶる神が住んでいます。荒々しい神です。」と言うので見たいと思い、沼に案内させました。しかし、それは罠でした。国造は野に火を放ち辺りは火に囲まれてしまいました。倭建命は叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、天叢雲剣でまわりの草を刈り、火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えたのです。このとき風向きも味方しました。こうして火のついた野から脱出できました。倭建命を罠に陥れようとした者たちは斬り殺され焼かれました。この地が焼遣(やきづ=焼津)です。      

 

日本平

 倭建命は小高い丘に登り、周りの平原を見渡しました。この様子を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けました。

 
 倭建命たちは走水(はしりみず)の海から船出をしました。たちまち嵐(あらし)が襲(おそ)いました。黒い雲が巻き起こり波が船を襲ったのです。雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船はなすすべもありませんでした。弟橘比売は「海神の祟(たた)り」だと言い、「その怒りを静めましょう」と海に身を投げました。
 
 入水の際に媛は火攻めに遭った時の倭建命の優しさを回想する歌を詠みました。
 
「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母」
(さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも)
相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……
 

走水神社

 弟橘比売は、倭建命との思い出を胸に、菅の敷物、皮の敷物、絹の敷物を波の上に敷いて船からその上に下りました。すると海は静まり、船は進みました。倭建命たちは上総(かずさ:千葉県)に渡ることができました。

 7日後海岸で倭健命は櫛を見つけました。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げてきました。これを埋めて陵を造りました。             
 
  このあと荒ぶる蝦夷たちを平定し、倭建命たちは帰途につきました。
  
 倭建命は、足柄の坂本(神奈川・静岡県境)で食事をしているとき、坂の神が白鹿となって現れました。そこで蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺しました。
 

碓氷峠

 東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と嘆きました。それがもとでここから東の国を「あづま」(東・吾妻)と呼ぶようになったと言われています。

 
 甲斐国に至り、酒折宮にいるとき倭建命は「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌を詠みました。
 するとこれにこたえてかがりびをたく老人が「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」と歌いました。この者をほめて東の国造に任じました。
 *これが連歌の発祥とされる話です。
 
 倭建命は科野国(しなの=長野県)の坂の神をおさえて尾張に帰ってきました。
 


以下(青字)は記紀には書かれていません。

内々神社

『尾張国熱田太神宮縁起』 

 
 尾張の国境、内津(うつつ)峠に入りました。
 
 倭健命は早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から、甲斐での戦いの後、東海道を通っていたはずの建稲種命(たけいなたのみこと)が駿河の海で水死したことを聞きました。
 
 
 倭建命は「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き悲しみ建稲種命の霊を祀りました。これが内々(うつつ)神社の始まりで、実際に祭った場所は奥の院であったとされています。(春日井市教育委員会案内板より)
 
 西尾(さいお)(倭建命が建稲種命の霊を祭った内々を振り返ったとき、馬の尾が西を向いたのでこの地名がつきました)から熱田への帰路、神屋(かぎや)で休んで手を洗いました。以前は清水が1年中かれることなくこんこんとわき出ていたといわれ、小さな祠が建てられています。


 

 
 倭建命は美夜受比売(みやずひめ)のもとに帰ってきました。食事をするとき美夜受比売は大きな杯を献上しました。この時美夜受比売の衣の裾が血で赤く染まっていたのが見え、倭建命は歌いました。

 
 天の香具山の上をやかましく渡っていく白鳥よ そのようにか弱い腕を 
枕にして寝たいと思うのですが あなたの衣の裾に月が立ってしまった 
 
 美夜受比売がこれに答えました。
 
 日の神の御子よ わたしの大君よ 年がきて去れば 月もきて去りましょう 
 あなたを待ちかねて わたしの衣の裾に月が立ってしまいました 
 
 こうして二人は結婚しました。
 

伊吹山

 尾張ではまだしなければならないことがありました。それは伊吹山の賊を征伐することでした 。倭建命は素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かけることにしました。

 
 伊吹山を登り始めてしばらくすると、白く大きな猪が現れました。山の神の使いが化けているに違いないから大したことはない、後回しにしようと先に進んでいきました。ところがこの白猪は山の神自身が変身していたのです。山の神は大氷雨を降らせたため、倭建命は大きな痛手を被ってしまい、やがて病となり伊吹山を下りました。
 
 *倭健命が攻撃されたのは伊吹山3合目付近であったらしい。西側登山道を登った3合目付近に倭建命遭難碑があるが、山頂には倭建命像が建っています。             
 

居醒の清水

 伊吹山を下り、毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いた倭建命は玉倉部の清水を飲んで体を休めました。こうしてだんだん正気を取り戻しました。この水は居醒清水(いさめのしみず)といいます。

 
 *ここの清水の効果は大きく、高熱がさめたという話が伝わっています。
 
 *伊吹山ゴンドラ乗り場付近の命水ケカチの湧(ゆ)や滋賀県米原町醒ヶ井に「居醒の清水」があり、この伝説が残っています。
 
 *昔、醒ヶ井は中山道を往来した人たちの休憩所でもありました。ここで倭建命が傷をいやしたと伝えられています。このことから「居醒(いざめ)の清水」と呼ばれ、醒井(さめがい)という地名もこの話が元になったと言われています。
 

杖突坂

  倭建命の足はふくれあがり「私の足は歩くことも出来ず、たぎたぎしくなった」と言いました。この地を当芸野(たぎの)とよぶようになりました。しばらく休んだ後、再び大和へ向かって歩き始めましたが大変疲れていました。目の前の急坂を上るために、杖をつきながら歩かなくてはなりませんでした。そこでこの坂を杖衝坂(杖突坂:つえつきざか)といいます。

 

尾津神社

  尾津前(おつのさき)の一本松のところに来ると、以前ここで食事をしたときに置き忘れた太刀がそのままありました。ここで歌いました。

 
 尾張に真直ぐ向いている尾津前の一つ松あせを 一つ松人にありせば太刀はけましを 衣きせましを 一つ松あせを
 
 そこから再び歩いた倭建命は「わが足三重の匂(まか)りなして、いと疲れたり」と言いました。
 このことからこの地を三重と呼ぶようになりました。
 
 
 やまとは 国のまほろば
 たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし
 
 命の 全(また)けむ人は たたみこも 平群の山の くま白梼が葉を うずに刺せ その子
 
 *この平群は三重県の平群ではなく、大和の平群と思われます。
 
 この二首は国思歌(くにしのびうた)です。
 
 愛(は)しけやし 我家の方よ 雲居(くもい)立ち来も  
 
 この一首は片歌です。
 

能褒野王塚古墳

 この時病気はかなり悪くなりました。

 
  嬢子(おとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
 
 倭建命は歌い終わると亡くなりました。
 
 *倭建命は終焉の地となる能褒野(能煩野:のぼの)に着きました。そして、ここで力尽きたのです。
 
 その知らせは宮にいる妃たちにも届きました。そして、能褒野に陵を造り、その周りを這いまわりました。
 
 后たちはなお3首の歌を詠いました。これらの歌は「大御葬歌(おおみはふりのうた)」(天皇の葬儀に歌われる歌)となりました。
 
なづき田の 稲(いな)がらに 稲がらに 
 蔓(かづら)ひもとろふ ところつづら
 (陵のそばの稲の上でところつづら(蔓草)のように這い回って、私たちは悲しんでいます)
 
浅小竹原(あさじのはら) 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
 (小竹が生える原は、竹が腰にまとわりつ
いて進みにくい 私たちは空を飛べず、
走るしかないのです)
  
 海が行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海がは いさよふ
  (海中を行くのも進みにくい 大河に生える水草のように、足をとられてふらふらしてしまいます)
 
 浜つ千鳥(ちどり) 浜よは行かず 磯づたふ
  (浜千鳥のように、あなたは陸の上ではなく、磯伝いに飛んで行かれのですね)
 
 
 みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり、大和の方へ飛んでいきました。

  
 *倭建命の陵とされる古墳の場所は諸説(「白鳥塚」鈴鹿市加佐登、「武備塚」鈴鹿市長沢「双児塚」鈴鹿市長沢、「王塚」鈴鹿市国府、「丁子塚」亀山市田村町)あって定かではありませんが、明治12年に内務省が亀山市の能褒野神社西にある丁字(ちょうじ)塚と呼ばれる前方後円墳を倭建命の陵と指定しました。
 
 *三重県亀山市にある能褒野御墓は全長90m、後円部の直径54m、高さ9mで三重北部最大の前方後円墳です。能褒野神社には倭建命、弟橘姫命などが祀られています。
 
 *鈴鹿市加佐登町の加佐登神社は倭建命、天照大御神を祭神とします。この地は景行天皇が行在所を置いた所であり、高宮の里ともよばれています。加佐登神社由来記によると、ここはもとは御笠殿(みかさどの)社といい、倭建命が最期まで持っていた笠と杖をご神体として祀ったとあります。近くに奉冠塚、奉装塚があり、着物がおさめられたと言われています。神社の北には倭建命が葬られたとされる白鳥陵があり、ここから倭建命は白鳥となって飛んでいったと伝わっています。古墳は東西78m、南北59m、高さ13mの三重県下最大の円墳であり、墳丘には葺き石が一部残っています。
 
能褒野より大和へ向かって一羽の白鳥が飛び立ちました。
 

琴弾原

 この白鳥が最初に舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原(奈良県御所市)で、この地に白鳥陵があります。

 
 
 
再び白鳥は空へと舞い上がりました。
 

白鳥陵古墳

白鳥は旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ちました。

 
  
白鳥は再び空天高く飛び去っていったといいます。

 日本書紀の原文は漢文ですが、口語訳して出版されている書物や解説本が多く出ていますので、それらを読み比べて理解し、足りない語句を少し付け加えながら紹介しています。そのため正しく訳されていない部分があるかもしれません。原文はネット上にも公開されています。

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日本書紀 卷第七 景行紀/成務紀
 
大足彥忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと) [景行天皇]
 

纏向日代宮跡

景行天皇19年(西暦89年) 9月20日

景行天皇は大和朝廷に従わなかった熊襲を討つため、景行天皇12年8月から九州南部に遠征していましたが、熊襲を成敗して大和の纒向日代宮に帰ってきました。
 
景行天皇25年(西暦95年) 7月3日
 景行天皇は武内宿禰をよんで北陸地方や関東、東北地方の様子を見てくるように命じました。
 
景行天皇27年(西暦97年) 春2月12日
 武内宿禰が東国の各地を視察して帰ってきました。そして、天皇に報告しました。

日高見神社

「東国に日高見国(ひたかみのくに)があります。人々は男も女も髪を「みずら」結びし(左右に分けて束ね耳上で結ぶ-埴輪に見られる)、体に刺青(いれずみ)を入れていて勇ましいです。この人たちを蝦夷(えみし)といいます。蝦夷が住んでいる土地は肥えているので、奪い取ってしまうべきです。」

 
*日高見国(ひたかみのくに)は『常陸国風土記』(信太郡の条)に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」と書かれています。筑波・茨城郡とよぶ以前は「日高見国」と呼んでいました。関東北部から東北地方の一帯は総称として「日高見国」という呼び方だったと考えられます。しかし、東征の帰路、酒折宮で日本武尊が「新治(茨城県)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と歌を詠んでいることから、茨城や筑波は日高見国を平定してから通過してきた場所と考えます。つまり、日高見の国は茨城や筑波よりさらに北東部の地域をさすと思います。
 
景行天皇27年(西暦97年) 8月
 熊襲が再び反抗して領地を拡大するようになりました。
 
景行天皇27年(西暦97年)冬10月13日
 天皇は日本武尊に熊襲を討つよう命じました。この時日本武尊はまだ16歳でした。
 

日岡神社絵馬

*景行天皇には妃となった播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)との間には大碓皇子(おおうすのみこ)、小碓尊(おうすのみこ)の兄弟がいます。(古事記では双子となっています) 景行天皇は兄の大碓皇子に美濃の国にいる美人の姉妹を連れてくるように命じますが、大碓皇子が気に入ってしまい、姉妹とは別人を天皇に引き合わせました。この出来事があり大碓命は美濃に封じられました。

 
*日本武尊は征西の途中でついた名です。出発時は小碓尊[おうすのみこと]または日本童男[やまとおぐな]と呼ばれていました。天皇の皇子のうち次期天皇候補に「尊」をつけるため、征西への出発時は「日本童男」と呼ばれていたと考えられます。
 
 日本武尊は家来たちに尋ねました。
「私は弓の名手を連れて行きたいと思っているが、どこかに弓を射つのがうまい者はいないだろうか。」
これを聞いたある人が申し出ました。
「美濃の国に弟彦公(おとひこのきみ)という弓の名手がいます。」
日本武尊は葛城の宮戸彦(みやとのひこ)を美濃に行かせ、弟彦公を連れてこさせました。弟彦公は石占横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子稻置(たごのいなき)、乳近稻置(ちちかのいなき)を伴ってやってきました。
 

建部大社

*建部大社(たけべたいしゃ)(滋賀県大津市神領一丁目16-1)の境内には日本武尊の一族と家臣が一堂に祀られています。

建部大社は景行天皇46年(西暦116年)に創建されたと伝わります。
この神社は日本武尊の正姫布多遅比売命(ふたぢのいりひめのみこと)が子の稲依別命(いなよりわけのみこ)と住んでいた所に日本武尊を「建部大神」として祀ったのが始まりです。
 本殿の主祭神は日本武尊です。
 摂社に日本武尊の一族が祀られています。
  聖宮神社 (ひぢりのみやじんじゃ)祭神は景行天皇
  大政所神社 (おおまんどころじんじゃ)祭神は播磨稲日大郎姫命 日本武尊の母
  藤宮神社 祭神は布多遅比売命 日本武尊の妃
  若宮神社 祭神は建部稲依別命 日本武尊の御子
  末社には日本武尊の家臣たちが祀られています。
  行事神社 祭神は吉備臣武彦、大伴連武日
  弓取神社 祭神は弟彦公
  箭取神社 (やとりじんじゃ)祭神は石占横立、尾張田子之稲置、乳近之稲置
 
日本武尊は皆を連れて出発しました。
 

行縢山

景行天皇27年(西暦97年)12月

熊襲の国に到着しました。
 この国の人たちの様子や地形の様子を視察しました。
熊襲にはここを治める勇者がいました。名前は取石鹿文(とろしかや)です。またの名は川上梟師(かわかみたける)といいます。川上梟師は親族を集めて宴会を開こうとしていました。そこで、日本武尊は髪をほどき、童女の姿(女装)になって密かに川上梟師の宴会にもぐりこみました。
 
 *この時着た衣装は叔母の倭姫からもらったものということが古事記からわかります。
そして腰に付けた剣を裀(みごろ 衣服)の裏に隠し持っていました。
*この剣も古事記では「懐」に隠し持っていたとしていますので裀(みごろ)は衣服と理解しました。
宴会を楽しんでいた川上梟師は女たちの中にひときわ目立つ童女の姿を見つけ、手を取って隣に座らせました。そして、お酒を飲みながら戯れていました。夜が更けても川上梟師はお酒に酔っていました。この時とばかりに日本武尊は衣服の裏に隠し持っていた剣を抜き、川上梟師の胸を刺しました。
 

熊襲の穴

 胸を刺された川上梟師でしたがまだ死んではいませんでした。頭を床につけたまま「言いたいことがあるからしばらく待ってください」と言いました。日本武尊はとどめをささずにいると、川上梟師が続けて言いました。

「あなたはどなたですか。」
 日本武尊は「私は大足彥天皇(おおたらしひこのすめらみこと)の子で名は日本童男(やまとおぐな)だ。」
 川上梟師はさらに言いました。
「私はこの国では強力の持ち主で、人々は私の力に勝てず、逆らう者はいません。私はこれまで多くの武人に会ってきましたが、あなたのような人には会ったことがありません。だから、もし許されるのであれば、私のような賤しい者ですがこの口で尊号を奉じさせてもらえないでしょうか。」
日本武尊は言いました。
「聞こう」
すると川上梟師は言いました。
「これよりあなたは日本武皇子(やまとたけるのみこ)と名乗ってください。」
この言葉を聞くと、日本武尊は川上梟師の胸を突きさして殺しました。これが「日本武尊」と呼ばれる所以です。
 この後、弟彦に一族の討伐を全滅させました。
日本武尊の一行は瀬戸内海を船を使って大和に帰ることとしました。吉備に向かう途中穴海(広島県)を渡るとき、荒ぶる者たちと戦って討伐しました。また、難波に着いた時も柏済(かしわのわたり)の荒ぶる者たちを殺しました。
 
 *古事記では九州征伐の後、出雲に向かっています。
出雲では日本武尊が作った偽の剣を出雲健の真剣とだまして交換し、殺してしまいます。
 この後、陸路で日本海側を東に向かい、再び瀬戸内海側に戻って大和に戻ったと考えています。
 
 
景行天皇28年(西暦97年) 春2月1日
 日本武尊は熊襲を平定した様子を天皇に報告しました。
 

保久良神社

「私は天皇の神霊に護られ、兵引き連れ熊襲の首領を討ち、その国を平定することができました。それにより西国は静かに落ち着きました。百姓は無事です。ただ、吉備の穴済(あなわたり)と難波の柏済(かしわわたり)に反抗的な者がおり、毒気を放って道行く人を苦しめていました。また藪は災いのもととなっていました。そのため、これら悪しき者たちを殺し陸路・水路を開くことができました。」

 天皇は日本武(やまとたける)の功績を褒めて、ことのほか愛しました。
 
景行天皇40年(西暦110年) 夏6月
 東方の夷人の多くが叛いて、辺境が騒がしくなりました。
 
景行天皇40年(西暦110年) 秋7月16日
 天皇は群臣たちを集めて言いました。
「今、東国が心配である。荒ぶる者たちがたくさんいるようだ。蝦夷は朝廷に叛いてしばしば人民を奪ってしまう。乱れを平定するために誰かを派遣しよう。」
 群臣たちは誰を派遣したらよいかわかりませんでした。
すると日本武尊が申しました。
「私は西征してもどり疲れています。この役は必ず大碓皇子にさせてください。」
 すると大碓皇子は愕然として、草の中に逃げ隠れてしまいました。すぐに使者を遣わして連れてこさせました。
 

清瀬神社

 天皇は大碓皇子を責めました。

「お前が望まないのなら、無理して派遣させることはない。しかし、どうして乱暴者に会ってもいないうちから、恐れてしまうのか。」
 
 天皇は大碓皇子を美濃に送って治めさせることにしました。大碓皇子は身毛津君(むげつのきみ)と守君(もりのきみ)の先祖となりました。
 
 このとき日本武尊が勇ましく声をあげて申しました。
 

日本平

「熊襲が平定され、そんなに年月が経っているわけではないのに、今度は東国の乱暴者たちが騒ぎ始めました。いつか落ち着かせることができましょう。私には大変な重荷ですがすぐに乱れを平定しましょう。」

 
 天皇は日本武尊に斧(おの)と鉞(まさかり)を渡しながら言いました。
「聞いたところでは、東国の者たちは性格が凶暴で悪いことばかりしている。村に長(おさ)も首(おびと)もおらず、領土を奪い合っている。山には邪神、野には姦鬼がいて、往来の邪魔をするのでたくさん人々が苦しんでいる。東国の中でも蝦夷はとくに強い。男も女も一緒に住み、父と子の区別もない。冬は洞穴で寝て、夏は森に住む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合っている。飛ぶように山を登り、獣のように草原を走る。獣のよう。恩を忘れ、恨みははらす。髻(もとどり 頭の上で髪を束ねたもの)の中に矢を隠し、衣の中に刀を入れている。仲間を集めて、領地を犯し、収穫期に作物を略奪する。弓を射ると草に隠れ、追いかければ山に逃げる。昔から今まで朝廷に従ったことがない。
 
 お前は背が高くて大きい。容姿は美しく、力強くてその勇ましさは雷電のようだ。向かうところ敵は無く、戦えば必ず勝つだろう。だからわかった。お前は私の子ではあるが、本当は神だ。天は国が乱れないためにも天皇の務めを怠らないようにし、天皇の家系が絶えないようにしてくれているのだろう。天下はお前のものだ。天皇の位というのもお前の位ということだ。願わくは物事を深く考え、裏にある悪い心を探り、背くか背かないかを判断し、時には武力を示し、従う者には徳をもって接し、戦わなくても従わせるように考えなさい。言うことをよくよく考え、乱暴者たちを鎮め、悪い奴らは武力で追い払いなさい。」
 
 「昔、西征したとき、天皇の威力によって、短刀で熊襲を討つことができました。しばらくして賊の首領らは服従しました。また天皇の霊力を借りて東国に出向き、徳を示しても従わないようならば、すぐに兵を挙げて討ちとりましょう。」
と言うと日本武尊は再度お辞儀をして下がりました。
 
 天皇は吉備武彥(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)に命じて、日本武尊に同行させました。また、七掬脛(ななつかはぎ)を料理人にしました。
 
景行天皇40年(西暦110年) 冬10月2日
 日本武尊一行は出発しました。
 
10月7日

伊勢神宮内宮

 倭姫命(やまとひめのみこと)にあいさつするため、伊勢神宮に寄り道しました。倭姫命を前にして日本武尊は「私は天皇から東国の背く者たちを討つように命じられましたが本当はやめたいのです。」

と言うと、倭姫命は日本武尊に草薙剣を授けて「慎んでこれを持って行きなさい。油断してはいけませんよ。」と励ましました。
 
景行天皇40年(西暦110年)

草薙神社

 この年のうちに、日本武尊は初めて駿河(静岡県)に到着しました。その土地の悪い者が日本武尊に従ったふりをして狩りに誘いました。

「ここは広い野原です。ここには鹿がたくさんいて、吐く息が朝霧のようで、しかもその足は林の茂みの様にしなやかです。さあ狩りをしましょう。」
日本武尊はこの者の言うことを信じ、野の中に入って行きました。
土地の者は日本武尊を殺そうと思っていたので、日本武尊の入った野に火をつけて焼きました。
 日本武尊はだまされたことに気づき、すぐに持っていた火打ち石で火をつけ、迎え火をつくることで難を免れることができました。
 
 他の書物によると、日本武尊が身に着けていた叢雲(むらくも)剣が自然に抜けて、尊の周りの草を薙ぎ払ったので難を免れることができたと書かれています。よってこの剣を「草薙」と呼ぶようになりました。
叢雲は茂羅玖毛(むらくも)と言います。
日本武尊は「騙されてしまった。」と言いました。その土地の賊たちは捕らえられ焼き殺しました。それでここを焼津(やいづ)と言います。
 
 

走水神社

 相模(神奈川県)まで到り、ここから海を挟んだ対岸の上総(千葉県)に進行しようとしました。海を見た日本武尊は、声高らかに自慢して言いました。

「こんな小さな海、一つ飛びで渡れるだろう。」
船が沖に進んだ時、急に暴風が吹き荒れました。そのため船は漂うばかりで先に進みません。
 この時、日本武尊に同行していた妃で弟橘媛(おとたちばなひめ)が日本武尊言いました。弟橘媛は穂積氏忍山宿禰(ほずみのうじおしやまのすくね)の娘です。
「今、暴風が起きて波が高く、日本武尊の船は沈みそうです。これはきっと海神がお怒りなのです。私は身分の低い身です。尊の代わりにこのを身を沈めましょう。」
 言い終えると弟橘媛は波間に身を投じました。すると、暴風はすぐにとまりました。こうして船は岸に着くことができました。この時よりこの海を「馳水(はしりみず)」(走水 東京湾)と呼んでいます。
 

九十九里浜

 日本武尊はすぐに上総から陸奥国(東北地方)に入りました。このとき、尊は大きな鏡を掛けた船で、海路で葦浦を回り、玉浦の横を通って、蝦夷の境に到着しました。

 
 蝦夷の首領の嶋津神(しまつかみ)や国津神(くにつかみ)たちは竹水門(たけのみなと)にいて入港を阻止しようとしていました。しかし、遠くから近付く尊の船を見て、その威勢を恐れ、勝ちそうもないことを悟ると、皆、弓矢を捨てて、拝みました。
「あなたを仰ぎ見るととても優れた人であることがわかりました。まるで神のようです。お名前を教えて下さい。」
 
 日本武尊は答えました。
 
「私は、現人神(あらひとがみ)の皇子だ。」
 
 蝦夷たちはおそれおののき、すぐに服の端をたくし上げて海に入ると、波をかき分け、船を着岸させました。その後、ひざまずき尊に服従しました。これを見た日本武尊は蝦夷たちの罪を許しました。そして、日本武尊は蝦夷の首領を従者としました。
 

酒折宮

 蝦夷を平定した後、日高見国から帰って常陸(茨城県)を経由し、甲斐国(山梨県)に到着し、酒折宮(さかおりのみや)に来ました。

 
灯をともして食事をしてから、夜、歌を作ってで従者に尋ねました。
「新治(にいばり 茨城県)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
新治や筑波を過ぎてから何夜過ぎたのでしょう。
従者たちは答えられませんでした。この時、燭(あかり)番がいて、尊の歌に続けて、歌を詠みました。
「かがなへて 夜は九夜日には十日を」
日数を数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。
尊は燭(あかり)番の賢さを褒め、褒美を与えました。この宮に滞在中、靫部(ゆけいのとものお 矢を入れる道具を背負う者)を大伴連の先祖の武日に与えました。
 
 日本武尊は言いました。
「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。ただ、信濃国(長野県)と越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、いまだに少し朝廷に従わないでいる。
 

碓氷峠

 日本武尊は甲斐(山梨県)より北の武蔵(むさし 東京都 埼玉県一帯)、上野(かみつけ 群馬県)を経由して西の碓日坂(うすいのさか 群馬県碓氷峠)に到着しました。日本武尊は弟橘媛(おとたちばなひめ)を思い出すことがありました。碓日峰に登り、東南の方を見ながら3回嘆いて言いました。

「吾嬬はや(あづまはや)」(「我が妻よ ああ」)
「嬬」は菟摩(つま)と読みます。
 
 それで山より東の諸国を吾嬬国(あづまのくに)」といいます。
ここから分かれて進み、吉備武彦を越国に派遣し、その土地や人民の様子を監察させました。
 

南アルプス

 日本武尊は信濃(長野県)へと進みました。この国は山高く深い谷があります。峰々が連なっています。人は杖を使っても登ることができません。険しい巌、曲がりくねった石の道、長い峰は数千あり、馬は先に進もうとしません。しかし、日本武尊は霞を分け、霧の中をこえ、大山を突き進みました。そうして峰に着きました。お腹がすいてしまい、山の中で食事をしました。すると山の神が日本武尊を苦しめようとして、白鹿に化けて尊の前に立ちはだかりました。尊は何か変だと思って、一つまみの蒜(ひる 野蒜)を白鹿に向かって弾き飛ばしました。それが目に当たり、殺しました。

すると、尊は急に道に迷ってしまい、抜け出る所が分からなくなってしまいました。その時、白狗(いぬ)がやって来て、尊を導こうとしました。その白狗について行くと美濃に出ることができました。
 

神坂峠

 吉備武彦が越からやってきて日本武尊と再会できました。以前、信濃坂(しなののさか)を通る人の多くが神気(霊気)を浴び、病で伏せっていました。白鹿を殺してからは、この山を越える者は蒜を噛んで、人や馬に塗ると神気に当たらなくなりました。

 
 日本武尊は尾張に帰ってきました。すぐに尾張氏の娘の宮簀媛(みやすひめ)と結婚し、しばらくここに留まって何か月か経ちました。
 

伊吹山3合目

 近江の五十葺山(いぶきやま 伊吹山)に荒ぶる神がいると聞いた日本武尊は宮簀媛の家に剣を置いて、歩いて行きました。伊吹山に着くと山の神が大蛇(おろち)に化けて道を塞いでいました。日本武尊は主神が蛇に化けているとは知らず「この大蛇はきっと荒ぶる神の従者にちがいない。主神さえ殺してしまえば従者なんかはどうでもよい」

と言われました。そして蛇を踏み越えて進みました。

玉倉部の清水

 その時、山の神は雲を発生させて雹(ひょう)を降らせました。峰は霧がかかって谷は暗くなり、どこを歩いて行ったらよいか分からず、さまよってしまいました。それでも霧をかき分けて強引に進みました。するとやっと抜け出ることができました。しかし、意識もうろうとして、酔っているようでした。そこで山の下の泉まで行き水を飲むと、正気に戻りました。この泉を居醒泉(いさめのいずみ)といいます。

 日本武尊はこの辺りから病気になってしまいました。しかし、立ち上がって尾張へ帰りました。しかし、宮簀媛の家には行かず、伊勢に向かい、尾津(おづ 三重県桑名市)に到着しました。
 

尾津神社

 昔、日本武尊が東に向かった年に尾津浜で止まって食事をしました。この時、一本の剣を松の木の下に置いたのですが、それを忘れて立ち去ってしまいました。

今、再び尾津に来てみると、あの時の剣がまだそこにありました。そこで歌を詠みました。
 
 尾張に直(ただ)に向へる一つ松あはれ
 一つ松 人にありせば
 衣(きぬ)着せましを
 太刀(たち)佩(は)けましを
  *尾張の方をまっすぐに向いて立っている一本松よ
   もし一本松が人であるなら
   服を着せてやるのに
   刀をもたせてやるのに
 
*人とは男の人のことです。古事記ではこの歌に「あせお」という語が入っています。これは女性を表す妹(いも)に対する兄(せお)=男を表します。日本書紀では帯刀するのは男性としてあえて補足していません。
 
 能褒野(のぼの)に着いても痛みはひいていませんでした。
 連行してきた蝦夷たちを伊勢神宮に献上しました。
 

三輪山

*蝦夷らについては次のような記述が後で書かれています。

景行天皇51年秋
蝦夷たちが昼夜を問わず騒いだり神官に迷惑をかけたりするので倭姫命は朝廷に蝦夷らを差し出しました。そのため、宮のある奈良の三輪山のふもとに住まわせました。しかし、蝦夷らはここでも大騒ぎし、三輪山の木を勝手に切ったり、大声をあげていた。これを聞いた天皇は、群臣らに「蝦夷らは人並み外れた者たちなので都には住まわせ難い。それぞれの希望を聞いて近畿より西に住まわせなさい」と命じられました。この人たちは、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波などの5つの国にいる佐伯部の先祖です。
 
 
 吉備武彦を都に遣して、天皇に報告させました。
 「臣である私は天皇の命を受け遠く東国の蝦夷らを征伐しました。これは神の恩恵を受け、天皇の御威光があったからこそ、叛く者たちは罪を認め、荒ぶる者たちは自ずから服従しました。これをもって、甲(よろい)を片付け、矛(ほこ)を納めて、安心して帰ってきました。願わくはいつの日にか宮にもどりたい思っていました。しかし、私の命が尽きようとしています。隙駟(げきし)のようにすぐに止まってはくれません。(四頭立ての馬車が早く通り過ぎてゆくように時間が短いこと) 独り荒野に伏しています。誰かに話しかけることもありません。自分の身が滅びることを惜しむわけではありません。ただ天皇にお目にかかれないことだけが残念です。」
 

能褒野神社

 日本武尊は能褒野(三重県亀山市)にて崩御されました。御歳30歳でした。

*年齢ははっきりしません。『日本書紀』の中の数値に矛盾が生じているためです。
 
 これを聞いた天皇は心安らかに寝られなくなりました。食事をしても甘味を感じないほどです。夜になるとむせび、胸をうちひしがれるほど悲しく泣きました。大変嘆いておおせられました。
「わが子の小碓尊(おうすのみこ)は昔、熊襲が叛いたときは、まだ総角(あげまき 大人の髪型)をしていないのに、長く戦い出て、天皇の近くにいて私を補ってくれた。しかし、東国が騒ぐと、討つ者がいなかったので愛情をぐっとがまんして乱暴者の領地に派遣した。一日も忘れることはなく、朝夕に行ったり来たりして帰る日を待ち望んでいた。何の禍(わざわい)なのか、何の罪なのか、思いがけず我が子が亡くしてしまった。これより後は、誰とともに大きな事業をなせばよいのか。
 

能褒野王塚古墳

 すぐに群臣を集め、多くの役人に命じて、伊勢国の能褒野陵(のぼののみささぎ 三重県亀山市)に葬りました。

 この時、白鳥が陵から出て、倭国を目指して飛び立ちました。群臣が棺を開いて見てみると、明衣(みょうえ 神事の衣服)だけが空しく残っていて、屍骨(しかばね)はありませんでした。そのため、使者を遣わして白鳥を追い求めさせました。
 
 
 

白鳥陵古墳

 白鳥は倭の琴弾原(ことひきはら 奈良県御所市富田)に停まりました。そこでここに陵を造りました。白鳥はさらに飛んで河内(かわち)に到り、旧市邑(ふるいちむら 大阪府羽曳野市軽里)に停まりました。そこにまた陵を造りました。この時代の人たちは、これら三つの陵を白鳥陵(しらとりのみささぎ)と呼んでいます。しかし、白鳥は天高く飛んでいってしまいました。そこで衣冠(いかん)を葬りました。功名を伝えようと考え、武部(たけるべ)を定められました。

この歳は天皇が皇位について43年です。

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  •  11 武蔵国に入る

  •  12 陸奥の蝦夷討伐

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  •  15 甲州路を行く

  •  16 信濃路で遭難

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  •  18 伊吹山の悪神

  •  19 白鳥は日本武尊

  •  * 各地の賊退治

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  •  * 草薙剣と熱田

  •  * 倭姫命の御巡幸

  •  * 倭姫命の御巡幸

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  •  * 記紀の口語訳

  •  * 書籍・資料紹介